三、入蘇後の概況

 九月二十八日ウオロシーロフ市内の某収容所(後にウオロシーロフ地区第二収容所となる)に、到着、ここで我々に対する再度の経歴調査あり、独逸人二名、白系露人二名は数日後何れかに連行された。ここには満人約六百名、憲兵特務機関関係者約百名の収容者が居つたとの事である。十月二十二日夕刻我々はトラックにて同市郊外「ノボニコリスク」収容所に移動したが同所には日、満両軍の將官を始め將校兵約百名の収容者が居り彼らとの談話ないし連絡は固く禁ぜられていた。十一月以降ソ軍將校に依る訊問が開始され、翌年三月ころまで続行、四月以降においても〇語関係者には〇続的に行われた。

 二十年十二月〇に分離された独逸領事館員ロツケンハーゲンが女子館員三名と共に再び我々の収容所に轉属、又翌年三月元中〇注政権〇〇の在朝鮮〇義州領事以下十名の中國人が朝鮮平壌の収容所から轉属、同様ちよう報に関する訊問を受けた。彼等の情報に依つて我々は平壌に在満大使館の家族が避難して居り、女子を含め二十七名の大使館員が抑留中の旨を知る事が出來た。訊問の結果、二月上旬先づ大石元外交部特派員が分離され、次いで同月二十四日宮川総領事、太田領事が何れかに分離せられた。収容者中軍人は前田海軍武官外一名を除き六月初旬までに全部移動し、外交機関抑留者のみの収容所となつた。七月中旬新たに七名の人々が轉属になつたが、暫くの間相互の連絡は厳禁されていた。この人〇はウオロシーロフ市内の監獄に投獄されていたもので、元関東州長官今吉敏雄、元満州国参議兼大同学院院長陸軍中將井上忠也、北支憲兵司令官陸軍中將加藤柏次郎、元満州國参議高橋康順、元満州國司法部次長前野茂、元満州國外交部事務官梶浦友吉、内藤操の諸氏で、今吉氏の情報に依つて〇に分離された宮川総領事並太田領事はウオロシーロフの監獄に収容後モスコーに向け移送されたらしいと云う事が分つた。二十一年十二月十六日北鮮に避難中平壌附近に抑留された在満大使館員二十七名(中一名は牡丹江領事館員)中村副領事、永山、小田各〇事官、境田、〇〇原、福山各書記生、黒木、西田(牡丹江)各〇訳生、島書記生、江口、大〇、豊崎、高〇、三橋、松本、和田、村方、〇場、隅原、加瀬、各嘱託、大塚〇員、森田、山崎、中束、赤沢、唐、後〇各タイピストが轉属になつた。

 昭和二十二年一月から〇〇的訊問が開始され、連日五、六名ないし十二、三名あてトラックで市内の防ちよう班本部に出頭を命ぜられ、長時間に亘〇収〇を受けた。訊問の結果三月初旬先ず中村副領事が分離され、五月までの間に道正副領事、三井副領事(盲腸手術入院中)丸山書記生、前田海軍武官、加藤中將、前野司法部次長、外交部佐藤、北島、梶浦各事務官(計十一名)が相次いで分離された。此の間目代書記生は訊問による表弱甚だしく一月二十七日遂に死亡した。尚収容所においてはメーデー革命記念日、戦勝記念日、天長節等に際し、〇々荷物検査が行われ、〇物、書物類が没収された。

 七月十六日ノボニコリスク収容所は閉鎖となり、ウオロシーロフ南方こう外の収容所に移動したがここでも若干の人達に訊問が行はれ古屋領事、水山理事官、中島書記生、西田通訳生、内藤操(計五名)が分離された。これによつて我々に対する訊問は一〇打切られたものの〇く八月下旬から十一月初旬に至るまで〇場、及びビール工場の雑役として初めて屋外労働に従事したが、時には老人、病弱者等も狩り出された事があつた。

 十一月初旬内務人民委員〇係官の手に依つて、我々一同の新しい身分調書が作成され防諜班〇から解放されて内務人民委員部に身柄を引渡されウオロシーロフ地区〇七捕虜収容所に轉属された。この収容所には約千二百名の日本軍捕虜が収容されて居た。我々の抑留者たる身分には何等変更なく將校としての待遇を受くべき眞収容所長より言明あり暫くの間作業もなく捕虜との談話も比較的自由であつたが翌二十三年一月我々は収容所の一隅に〇〇を移され、周囲には別箇の鉄条網が張り巡らされ捕虜との連絡は厳重に禁止された。この処置に対し我々は所長に対し鉄条網の撤廃方を要請したが容れらず、思うにこの処置は我々の言動が〇〇の民主運動に悪影響を與えると云〇ソ側の危ぐに出たものではないかと想像された。〇来我々は自発的に収容所の雑役に従事していたのであるが身体検査の結果三月下旬に至り健常者に対し再び屋外労働が課せられた、この間船〇書記生、村上書記生、〇山書記生、井上、〇〇〇元参議、〇領事以下中國人四名が新たに分離された。理由は不明なるもハバロフスクに赴いた〇〇である。なお出発に際し各人に九〇ルーブルあて支給された。又三月下旬元満州〇興〇部参事官高〇毅一郎氏が我々のグループに轉属された。五月加瀬嘱託から分離されたが別個に帰國した模様である。

 七月十七日収容所の閉鎖に依り捕虜とは別個の行動をとりウラヂオ地区第十収容所に移動、ここでも我々は捕虜とは〇〇された生活を営み健常者のみが戦後約一カ月労働に従事した。

 九月十七日〇〇州地区収〇部長の巡視あり、日本人のみに対し班長の服装検査があつた。同日午後入浴後全員(独人、中國人を含む)に対し下着、上下各一枚あて支給され、寝具その他の貸興物品の返納が命ぜられた。夕刻に澄り全員に対し「二〇分以内に出発準備」の命令あり、九時頃班長立会の〇係官によつて今吉元〇〇州長官以下四十名の氏名が読上げられ、柵外のソ側事務所に至り厳重な私物検査〇(〇物、印刷物は大小を問わず没収された)日本軍外〇、ズボン等が支給された。同夜〇時三〇分ウラヂオ発ナホトカ行きの列車に乗車一八日午前九時頃ナホトカ着、天幕張りの仮収容所に入り、同地に五日滞在、二十三日ナホトカ出発の引揚船遠州丸に乗船二十六日舞鶴港に上陸した。哈爾濱出発以來終始行動をともにせる〇本書記生は何故かウラヂオに残留せしめられた。外務省関係残留者は左の通りである。

 (昭和二十三年十二月 終戦後における哈爾濱総領事館員の動静 元哈爾濱総領事館在勤 外務書記生)