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終戦後における哈爾濱総領事館員の動静 残留者名簿

総領事 宮川 船夫  分離年月日 二一、二、二四

分離の場所 ノボニコリスク収容所  理由 訊問の爲

備考 モスコーに赴きたる模様

 

領事 太田 日出雄  分離年月日 同

分離の場所 同  理由 同

備考 同

 

領事 古屋 克正  分離年月日 二二、一〇、三

分離の場所 ウオロシーロフこう外収容所  理由 同

 

副領事 道正 久  分離年月日 二二、四、二十六

分離の場所 ノボニコリスク収容所  理由 同

 

副領事 中村 隈三郎  分離年月日 二二、三、十七

分離の場所 同  理由 同

 

副領事 三井 義人  分離年月日 二二、四、

理由 同

 

理事官 永山 正秋  分離年月日 二二、一〇、一六

分離の場所 ウオロシーロフこう外収容所  理由 同

 

書記生 柘植 格  分離年月日 二三、三、二十六

分離の場所 ウオロシーロフ第七収容所  理由 不明

備考 ハバロフスクに赴きたる模様

 

書記生 村上 〇夫  分離年月日 同

分離の場所 同  理由 同

備考 同

 

書記生 福山 直志  分離年月日 二三、三、二十六

分離の場所 ウオロシーロフ第七収容所  理由 不明

備考 ハバロフスクに赴きたる模様

 

書記生 丸山 重徳  分離年月日 二二、四、三〇

分離の場所 ノボニコリスク収容所  理由 訊問の爲

 

書記生 錫本 駿徳  分離年月日 二三、九、十七

分離の場所 ウラヂオ第十収容所  理由 不明

 

書記生 中島 良夫  分離年月日 二二、八、

分離の場所 ウオロシーロフこう外収容所  理由 訊問の爲

 

通訳生 西田 勝次  分離年月日 二二、八、二〇

分離の場所 同  理由 同

 

嘱託 馬場 勝次  分離年月日 二二、八、三

分離の場所 同  理由 同

 

(計 十五名)

 

三、入蘇後の概況

 九月二十八日ウオロシーロフ市内の某収容所(後にウオロシーロフ地区第二収容所となる)に、到着、ここで我々に対する再度の経歴調査あり、独逸人二名、白系露人二名は数日後何れかに連行された。ここには満人約六百名、憲兵特務機関関係者約百名の収容者が居つたとの事である。十月二十二日夕刻我々はトラックにて同市郊外「ノボニコリスク」収容所に移動したが同所には日、満両軍の將官を始め將校兵約百名の収容者が居り彼らとの談話ないし連絡は固く禁ぜられていた。十一月以降ソ軍將校に依る訊問が開始され、翌年三月ころまで続行、四月以降においても〇語関係者には〇続的に行われた。

 二十年十二月〇に分離された独逸領事館員ロツケンハーゲンが女子館員三名と共に再び我々の収容所に轉属、又翌年三月元中〇注政権〇〇の在朝鮮〇義州領事以下十名の中國人が朝鮮平壌の収容所から轉属、同様ちよう報に関する訊問を受けた。彼等の情報に依つて我々は平壌に在満大使館の家族が避難して居り、女子を含め二十七名の大使館員が抑留中の旨を知る事が出來た。訊問の結果、二月上旬先づ大石元外交部特派員が分離され、次いで同月二十四日宮川総領事、太田領事が何れかに分離せられた。収容者中軍人は前田海軍武官外一名を除き六月初旬までに全部移動し、外交機関抑留者のみの収容所となつた。七月中旬新たに七名の人々が轉属になつたが、暫くの間相互の連絡は厳禁されていた。この人〇はウオロシーロフ市内の監獄に投獄されていたもので、元関東州長官今吉敏雄、元満州国参議兼大同学院院長陸軍中將井上忠也、北支憲兵司令官陸軍中將加藤柏次郎、元満州國参議高橋康順、元満州國司法部次長前野茂、元満州國外交部事務官梶浦友吉、内藤操の諸氏で、今吉氏の情報に依つて〇に分離された宮川総領事並太田領事はウオロシーロフの監獄に収容後モスコーに向け移送されたらしいと云う事が分つた。二十一年十二月十六日北鮮に避難中平壌附近に抑留された在満大使館員二十七名(中一名は牡丹江領事館員)中村副領事、永山、小田各〇事官、境田、〇〇原、福山各書記生、黒木、西田(牡丹江)各〇訳生、島書記生、江口、大〇、豊崎、高〇、三橋、松本、和田、村方、〇場、隅原、加瀬、各嘱託、大塚〇員、森田、山崎、中束、赤沢、唐、後〇各タイピストが轉属になつた。

 昭和二十二年一月から〇〇的訊問が開始され、連日五、六名ないし十二、三名あてトラックで市内の防ちよう班本部に出頭を命ぜられ、長時間に亘〇収〇を受けた。訊問の結果三月初旬先ず中村副領事が分離され、五月までの間に道正副領事、三井副領事(盲腸手術入院中)丸山書記生、前田海軍武官、加藤中將、前野司法部次長、外交部佐藤、北島、梶浦各事務官(計十一名)が相次いで分離された。此の間目代書記生は訊問による表弱甚だしく一月二十七日遂に死亡した。尚収容所においてはメーデー革命記念日、戦勝記念日、天長節等に際し、〇々荷物検査が行われ、〇物、書物類が没収された。

 七月十六日ノボニコリスク収容所は閉鎖となり、ウオロシーロフ南方こう外の収容所に移動したがここでも若干の人達に訊問が行はれ古屋領事、水山理事官、中島書記生、西田通訳生、内藤操(計五名)が分離された。これによつて我々に対する訊問は一〇打切られたものの〇く八月下旬から十一月初旬に至るまで〇場、及びビール工場の雑役として初めて屋外労働に従事したが、時には老人、病弱者等も狩り出された事があつた。

 十一月初旬内務人民委員〇係官の手に依つて、我々一同の新しい身分調書が作成され防諜班〇から解放されて内務人民委員部に身柄を引渡されウオロシーロフ地区〇七捕虜収容所に轉属された。この収容所には約千二百名の日本軍捕虜が収容されて居た。我々の抑留者たる身分には何等変更なく將校としての待遇を受くべき眞収容所長より言明あり暫くの間作業もなく捕虜との談話も比較的自由であつたが翌二十三年一月我々は収容所の一隅に〇〇を移され、周囲には別箇の鉄条網が張り巡らされ捕虜との連絡は厳重に禁止された。この処置に対し我々は所長に対し鉄条網の撤廃方を要請したが容れらず、思うにこの処置は我々の言動が〇〇の民主運動に悪影響を與えると云〇ソ側の危ぐに出たものではないかと想像された。〇来我々は自発的に収容所の雑役に従事していたのであるが身体検査の結果三月下旬に至り健常者に対し再び屋外労働が課せられた、この間船〇書記生、村上書記生、〇山書記生、井上、〇〇〇元参議、〇領事以下中國人四名が新たに分離された。理由は不明なるもハバロフスクに赴いた〇〇である。なお出発に際し各人に九〇ルーブルあて支給された。又三月下旬元満州〇興〇部参事官高〇毅一郎氏が我々のグループに轉属された。五月加瀬嘱託から分離されたが別個に帰國した模様である。

 七月十七日収容所の閉鎖に依り捕虜とは別個の行動をとりウラヂオ地区第十収容所に移動、ここでも我々は捕虜とは〇〇された生活を営み健常者のみが戦後約一カ月労働に従事した。

 九月十七日〇〇州地区収〇部長の巡視あり、日本人のみに対し班長の服装検査があつた。同日午後入浴後全員(独人、中國人を含む)に対し下着、上下各一枚あて支給され、寝具その他の貸興物品の返納が命ぜられた。夕刻に澄り全員に対し「二〇分以内に出発準備」の命令あり、九時頃班長立会の〇係官によつて今吉元〇〇州長官以下四十名の氏名が読上げられ、柵外のソ側事務所に至り厳重な私物検査〇(〇物、印刷物は大小を問わず没収された)日本軍外〇、ズボン等が支給された。同夜〇時三〇分ウラヂオ発ナホトカ行きの列車に乗車一八日午前九時頃ナホトカ着、天幕張りの仮収容所に入り、同地に五日滞在、二十三日ナホトカ出発の引揚船遠州丸に乗船二十六日舞鶴港に上陸した。哈爾濱出発以來終始行動をともにせる〇本書記生は何故かウラヂオに残留せしめられた。外務省関係残留者は左の通りである。

 (昭和二十三年十二月 終戦後における哈爾濱総領事館員の動静 元哈爾濱総領事館在勤 外務書記生)

二、哈爾濱出発迄の状況

 九月八日夕刻、ソ軍將校 〇訪「三十分程お話を承り度い」とて〇て進駐軍司令部に提出せる館員リストに基き太田領事、古〇領事、道〇副領事、目代、大神田、綱島、柘植、〇谷、村上、中島、丸山、酒井、鍬本、押野各書記生、宮本、〇〇各通訳生の氏名を読み上げ、厳重な警戒の下にトラックにて哈爾濱市〇砧街満州航空会事務所に連行、各自の経歴に関する簡單な訊問が行われた。なお海軍武官府からは前田大佐以下七名が我々と同時に連行され、同事務所に於ては先着の元満洲國外交部大石特〇員以下一〇名が既に訊問中であつた。同夜はそこで過し、翌日は元日本総領事館地下室に移され十日夕刻市内の道〇〇獄に収容された。以來二週間、寝具の給興なく、南京虫と寒さに痛められつつ二十四日迄同所で過した。監房内には王浜江省長田村〇次長、張哈爾濱市長、兒玉憲兵隊長、山本満鉄哈爾濱鉄道局総務部長等の〇も見え、他の監房には元総領事館嘱託コルドノフ、レービン両名の顔も見受けられた。二十四日夕刻トラックにて哈爾濱駅に送られ、待機中の貨車に乗車せしめられた。此の間在留の宮川総領事は進駐軍司令部〇にソ連総領事館に対し我々の安否に関し〇々祈〇したが要領を得ざりし趣にて、三井副領事、篠塚、石〇、金城、下松、伊野各嘱託、野村、新〇各雇員太田、石井、野村、佐藤各留学生等十二名と共に同日一足遅れて我々と同じ車輛に乗車せしめられた。之で拘引された者は先発の十六名と合せて二十九名、結局後に残つた男子は西方書記生、岩崎、山下各留学生、小林雇員の四名で、留学生は総領事よりソ側に交渉、ソ側と連絡の〇特に残留せしめたもので西方書記生は應召中の〇名簿洩となつたものである。総領事一行に依つて、我々に対しスーツケース各一個あて届けられたのであるが、車内に於ける所持品検査の結果、金属製品〇製品類は一切没収された。なお我々の車輛には外交部一〇名海軍武官府七名の外在哈独逸領事館コルテス書記生、ロッケンハーゲン嘱託、白系露人二名が同車、よく二十五日未明哈爾濱出発車中五日を費し二十八日夕刻ウオロシーロフに到着したのである。

(館員拘引〇に於ける家族の状況に就ては別途西方書記生寄り報告済)

 (昭和二十三年十二月 終戦後における哈爾濱総領事館員の動静 元哈爾濱総領事館在勤 外務書記生)

一、終戰前後における哈爾濱の状況

一、終戰前後における哈爾濱の状況

 昭和二十年八月九日ソ軍の満州國攻撃が開始されるや、哈爾濱には同日午前三時ごろソ軍の爆撃機が飛來し市内浜江駅に爆弾を投下倉庫一棟が炎上した。

 ソ軍は瞬く間に國境線を突破し、刻々牡丹江、哈爾濱方面に進撃中との報道あり、市内には逐次日本軍の数も増加し、人心は漸次緊張の度を加えて行つた。

 総領事館においては緊急事態に備えて宮川総領事指揮の下に各館員の分担を定め、電信コード、機密書類の廃却に着手すると共に、本省に資金を請求し防空施設の強化、籠城物資の購入等万全の策を決定した。

 十一日御眞影は道正國領事、中島書記生によつて新京大使館に奉〇された、十三日新京大使館は関東軍司令部と共に通化に移動の情報あり、この日哈爾濱に避難してきた在牡丹江古〇領事以下館員六名は哈爾濱総領事館に合流行動を共にすることとなつた。宮川総領事は田村浜江省次長等と諮つて哈爾濱を非武装都市として宣言する様軍に要請する所あつたが、軍作戰は哈爾濱を第一戰防禦陣地とすることになつて容れられず市内の各要所には陣地の解築が開始された。十四日夕刻総領事以下総領事館に集合、大使館に合流のため通化に移動するか、又は大使館とは別箇に京城まで非難するか、あるいは最後まで哈爾濱に〇止まるべきかについて熱烈な討議が行われたが、討議続行中十五日に重大放送がある旨のラヂオニゥースあり、結局重大放送をまつて総領事館としての態度を決定することとなつたが、翌十五日無条件降伏の詔勅があつたので館員及家族は総領事官邸並官邸に隣接の官舎に集結することとなり、一部の女子属員を除き牡丹江館員、畄学生を加え十七日移糙を完了した。

 本省からの送金未達のため、資金は〇取〇満州中央銀行哈爾濱支店から拾万円、廣浜正金銀行哈爾濱支店から五万円計拾五万円を借用し、〇〇施設を強化すると共に食糧品を購入し、家族数に應じ各館員に公平な配給を行うこととし、その後哈爾濱に避難の在黒河三井〇領事並家族、チチハル分〇所主任廣島書記生の家族をも収容し籠城態勢を整えた。

 この間、予て〇〇〇のため哈爾濱市内の赤十字病院に入院加療中の佐々田良畄学生は十四日同病院において死亡。十八日、酒井、中島両書記生の奔走によつて辛うじて火葬に附することができた。

 十七日宮川総領事は降伏条項條項調印式に列席のため、秦関東軍参謀長、秋草哈爾濱特務機関長と共に、飛行機にてウオロシーロフに赴き、ソ連極東軍司令官ワシリエフスキー元帥と会見の席上、在満邦人の生命財産保護の保証を得十八日帰哈この旨放送すると共に新聞紙に達示として発表した。

 このころ連日の列車で奥地からの避難民は哈爾濱駅頭にあふれ悲壮な情景を呈していたが、総領事は太田領事以下を督励、古〇領事、三井副領事と協力して、官邸に仮事務所を開き、在哈ソ連総領事とも連絡の上、在畄民保護のため狂奔走したが、十八日ソ軍先遣部隊は空路哈爾濱に到着し同日夕刻総領事館はソ聯に接収され、二十一日には哈爾濱地区における日本軍の武解除が行われた。

 (昭和二十三年十二月 終戦後における哈爾濱総領事館員の動静 元哈爾濱総領事館在勤 外務書記生)

六、日本軍捕虜に対するソ連の赤化工作について

日本軍捕虜に対するソ連の赤化工作について


日本軍捕虜に対するソ連の赤化工作には少なからぬ熱意が拂われ、又相当な効果を挙げて居るものと思われる。捕虜に対する赤化工作の魁として、二十年の末ごろからハバロフスクにおいて「日本新聞」が発行され、各収容所に配布された。日本新聞はソ連の指導の下に数名の日本人が分担執筆し、日本語で印刷されたもので、天皇制資本主義社会機構の欠陥を暴露し、戦後における日本の国内事情を誇大に報道して、日本政府並占領軍の政策を批難し、軍財閥の罪悪史と敗戦の原因を描く一方、共産主義理論並社会機構を平易に解説し、東欧におけるソ連衛星国の復興振りを掲げ、北鮮と南鮮、東方独逸と西方独逸とを比較して共産主義制度の優秀性を誇示し、捕虜の頭の切替に努めると共に、兵と将校との間にわだかまる感情の溝を利用して階級意識を煽り、先ず収容所の民主化を宣伝した。この方法は功を奏し、各収容所のおけるソ連政治部員の指導と相俟ち、尖説分子に依つて各収容所内に民主グループなるものが組織され暫時その勢力を増して行つた。日本新聞はその後内容を充実し國除問題、日本の國内問題を随時解説すると共に、写眞グラフ及共産主義の初歩的理論、ソヴェート社会主義國家の組織構造〇業、経済等に関する關するパンフレツトを印刷配布すると共に、モスコー発行の共産党小史日本語版並びソ連人依る日本旅行記等も相当部数が各収容所に配布された。宣傳だ、嘘だと思つていても、〇い間同じ事を何囘となく聞かされると、あるいは?と思われて來る所に人間の〇さがある。敗戦の重圧の下に、何時帰れるとも知れぬ収容所の無味乾燥な生活環境下にあつて、捕虜〇の氣持が少しづゝ動いて行くのは当然である。ソ測は各収容所から、年少氣鋭の者を選拔して講習会を開催、指導者の養成に努めた。かくして民主グループの勢力は日益に増大し、民主会として組織を拡大し、旧將校團から収容所における指導権を奪つて、実権を獲得した。民主会は、壁新聞を発行し、新聞解説を行い、批判会、夜間講習会を開催すると共に、劇團、楽團を組織し、娯楽を兼ねての宣傳等活潑な活動を行つている楽團、劇團中特に優秀なものはソ〇の便宜供興に依つて、専門化し、各収容所を巡囘上演している。

 民主会は本年一月「反ファシスト委員会」として新発足し、益々活潑な宣傳並実践活動を行つている。かくして苟も民主運動に非協力の態度を持する者は、將校、兵の如何を問わず反動として他の収容所へ追放されるのが普通である。そのためこうした運動に反対の立場を採る人間であつても、目を閉ぢ、口をつぐんで民主運動に從つて行かねばならないのが現在の在ソ同胞の姿である。

 ソ側は収容所を包んで燃え広がつた民主運動の烽火を生産面に利用した。作業の超遂行がそれである。委員会の指導者達は「五ヵ年計画を遂行する事は世界平和を保証し、労働階級の福祉を増進する」、「五ヵ年計画の遂行は日本の民主運動に直結する」、「五ヵ年計画の四ヵ年遂行」を絶叫している。正に一石二鳥の名案である。

 こうした一面から考えると、在ソ同胞の帰還の後れる重大な原因の一つは労働力の利用にあるのではないかと想像される。

 在ソ同胞の最大関心事である帰還問題について、ソ側は、われわれは捕虜を出来るだけ早く帰し度いという意志と用意は充分あるが、日本政府並びに占領軍当局に誠意なく、船を出さないからだと日本新聞を通じ、又は収容所の係官を通じて宣傳し帰還と称して出発した同胞達が船が来ないから今暫く働いてくれと、他の収容所へ盥廻しになる事は珍しくない。

 同胞の帰還に対して誠意がない、食糧事情から帰還を希望しない、帰還しても面倒を見てくれない、食糧事情益々悪化、失業者一千万‥これ等の宣傳は帰國を最大の希望としている在ソ同胞の頭を左に向けるには確かに効果的である。

 現在各収容所には赤旗が翻り、革命歌が絶えないという状況で天皇制打倒、反動追放、人民政府樹立、世界平和と諸民族独立の城塞ソ同盟万才、勤労者農民の祖國ソ同盟、五ヵ年計画に協力するため生産競争を展開せよ、世界平和の敵フアシストを葬れ、祖國日本を米國の植民地化から救へ、…等のスローガンが強烈な色〇を以つて描かれ、レーニン、スターリンを始めソ連共産党幹部のの肖像画が掲げられている。

 なお樺太においても同胞に対する宣傳新聞「新生命」が発行され、樺太におけるソ連の善政?宣傳のため各収容所に配布されている。

 併し、日本に対する同胞のゆがめられた偏見は、引揚船に乗船と共に一部の人間を除いては、次第に訂正されて行く事実もまた見逃す事は出来ない。

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*1:昭和二十三年十二月 終戦後における哈爾濱総領事館員の動静 元哈爾濱総領事館在勤 外務書記生